四天王寺を見て思うこと。

明日四天王寺で「どやどや」という裸祭りが行われ、我が母校の電気部で撮影をするということなので、今日は午後からその下見に行った。四天王寺に行くのは実に半年振りくらいで、昔バイトをしていたころに知り合った職員の人たちに挨拶に行く。皆さんご高齢だが元気に働いていらっしゃる。みなさんも馴染みの人間が来たということでとても喜んでくれた。こういった時が一番心が温かくなる。

働いている人それぞれは皆さんいい人たちばかりだけど、この寺は性根が腐っている。傍目から見ていても、宗教を商売とし、ご老人から金を吸い上げることだけに腐心していることがよく分かる。しかしそれは寺、坊さん、そして宗教というものが成り立つにはなくてはならない要素ではある。誰も慈善だけでは飯は食えないのだ。

大学一年生のころから僕は毎年彼岸と盆の時期になるとこの寺にアルバイトに来ていた。休暇中に短期でバイトが出来れば正直どんな仕事でも良かったが、あえてお寺を選んだのは僕自身に少しは信仰心があったからかもしれない。家族も熱心な仏教徒だし、自分も信仰の対象は若干違っても神仏に帰依する心はある。寺で仕事をするということは自分なりの帰依の形だったんだと思う。

しかしそんな気持ちは2年の夏にある出来事をきっかけに消えうせてしまう。その夏の盆、僕は知り合いの女性に四天王寺の仕事を紹介した。その女性とそして同じ職場で働く女性が四天王寺の職員にパワハラを受けたのだ。職員が女性たちに浴びせた言葉はとてもお寺に勤め、仏を信ずるものの言葉とは思えないものだった。女性からその相談を受けた僕は怒り心頭して、お寺に怒鳴り込んだのだった。
おまけに僕の対応をした坊主(人事総務担当)の弁解は本当にその場しのぎのもので、僕は大いに寺にも坊主にも大いに失望したし、仏教に不信感ももった。

考えれば、自分の宗教の原点は高校の教育方針にあるとおもう。母校は仏教系の学校であり、信仰と社会で生きるための「実」の両方を重んじる。信仰を大切にし、社会のためになる人物になるのは大切だが、その理想の実現のためには信頼も財力も必要であるというのが教えの根本の部分にあった。母校は宗教家を育てるための学校ではなかったがが、自分にとってはこの教えは宗教家や坊主がいうことよりも説得力があった。

だんだん何が言いたいのか分からなくなってきたけれど、信心やそのという言葉どおり、信仰は常に自分の心のなかにあって、自分の傍らには常に御仏がいっしょにいてくれて生きるための智慧や力を与えてくれることなんだとおもう。だけど人は対象がないと不安だから、寺や仏像といったモノを求める。自分は決してお寺や仏像を無くせとは思わないけれど、それらを絶対視するつもりはない。だって確かに仏様は何者にもかえられないありがたいものだけど、それよりも僕は自分のパートナーだと信じたいから。

かなり偏った信仰だろ自分でも自覚してるし、ところどころ教義から見れば間違っているところも多いと思う。でも今のところこれが自分の正直な気持ちだし、年齢を重ねればまた変わってくるかもしれない。そんな柔軟性があってもいいんじゃないだろうか。全然まとめ切れてねぇよ。

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EMS・・・腹直筋、ハムストリングス
今日は軽めにローラーに50分ほど乗った。最初は軽めに回転重視。片足ペダリングを3セットやってペダリング動作への意識を高めたところで、MAXケイデンスをあげるためのスプリントを3本。久々のメニューということで10秒間のもがきにとどめた。
それにしても左足は自分で見ても比較的きれいに廻せているが、右足がどうも安定しない。膝がきれいな軌道で上下運動していない感じ。クリート位置を見直したほうがいいのかもしれない。